「………、………」



「………?」



 呼ばれた気がして振り返った。けれど長い廊下には自分ひとりだけ、影のひとつも見当たらない。空耳だろうか? (………ア)
 でも、やっぱり何か聞こえるような。思って、手近な窓の外、のぞいてみたらぶっ飛んだ。思わず叫びかけた口をばちん!と手のひらで封じ猛ダッシュ、階段駆け下り扉は開け放ち、誰かとぶつかりそうにもなりながら(ごめんなさい!) 足は止めずにとにかく走る。急ブレーキと一緒に目的の場所へたどりつけば、ぱちぱちと気のない拍手に迎えられた。

「やっだガイラルディアってばちょう速ーい」
「へいか…あんた何やってるんですこんなとこで…!」

 ざらざらの幹に背を預けたピオニーはにっこり笑う。脱走はまだいい、日常茶飯事だ。…そう考えてしまう時点でこの人のペースにかなり流されて…毒されて? いるってことなんだけど、それで庭にいるのもまあいい。だけど。

「雨降ってるんですよ、風邪なんかひいたら…しかもその服よそいきの上等の」
「あぁだからほら、雨宿り」
「傘さしてください!!」

 木の下にいたってしのげる雨露には限りがある。それでもそうするしかないならともかく、広いとはいえ庭の中、屋根なんか近くにいくらでもあるのに。現に彼の全身は大分水気を含んで、くそ、この人、その服とかの値段わかってるのかな。

「さっき帰ってきたとこなんだ。会議だか会談だか、会合だか…なんだったか。とにかく、格好ばかりご立派で、中身ねえったら、笑いそうになって困るくらいの」

 腕をとろうとしたけれど、ちいさく頭を振られ手を外されたらそれ以上のことはできない。早く着替えなきゃ本当に風邪をひくのに、彼はくつくつと肩をゆらすだけで、ああ、早く部屋に入らないと。部屋に入ってタオルと暖炉とあたたかい飲み物と、はやく、雨から、逃れな い と 。

「…洗いたかったんだ。ほんとに、早く流さなきゃ、体が腐る。…耳からな」

 ピオニーが一歩、踏み出せば、しゃり、と敷石が鳴った。雨を浴びたせいだろうか。悲鳴みたいな高い音。

「だけど、人の身に雨は冷たいな。長くはいられない。こんなふうに、葉の影にでも入らなけりゃ」

 いつのまにか雨はいちだんと激しくなっていた。煙る雨で全身を包んでみるみる濡れそぼっていくピオニーを、だけど、ガイは止められない。きっとと止めたって届かない。結界の内に主はいる。ただ、断崖にも等しいつめたいベールの向こうから遠く声が聞こえた。たのむ。

「頼む」
「俺が、光を当てるから」
「乾いたら水をやろう、風も、嵐からもまもってやる」
「だから」
「どうしようもなく疲れちまったときだけ、少しだけ…、少しだけ」

「雨宿りさせてくれないか」



 ベールがはじけて破れてビーズになって散らばって、ばかだな、何が断崖だ。銀のビーズみたいに光る雨粒のただ中へ腕を差し伸べ、薄絹よりやわい境界をかきわけながら、そのとき、あとから考えればとてつもなく大それた――――思った一瞬あとにさえ、身の丈に合わないにもほどがある、なんて感じてしまったことを、だけどこの上なく強く真摯に思ったのだ。どうかこの人を助けられますように。全部なんて贅沢は言えない。裾やつま先やなんかは冷えさせてしまうだろう。あるいはもっと? でもそれでいい。できるだけでかまわない。この人の助けになりたいと願うのは俺だけではない。だけどこの人がこんなふうに疲れてしまったとき手を伸ばすときに一番にその手を取ることができるものでありたい! 俺はこの人を助けたい。救いたい。俺は、この人の、救いになりたい。



 なんという傲慢!(でも、そんな勘違いも許されるだけ、引き寄せた体はぐったりと冷えきって軽かった)
 ああ、ああ、今このときに傘でも枝ぶりのよい樹でもないこの身が何の役に立てるだろう。そう嘆いても、俺はやっぱり傘ではないし、木陰でもないので、一緒に無為に雨に濡れてゆくことしかできない。人なんてなんて不便だろう。こんなに近づいてみても、うるさいほど脈打つ胸の生む熱をほんのひとかけでも伝えることさえままならず、あなたの体はこんなにも冷たいままだ。もっとわかりやすく、こんな、冷たい雨からあなたを守れる傘だったならば、どんなにかいいだろう。
 俺は傘になりたいです。あなたの傘に。















20080306