まず目を引くのは黒の更紗。顔の半ばから背中までを覆う布地は豪奢な金の大方を霞ませ、世界を拒むようなイメージを紡ぐ。
濃紺の上着は長い丈を広げ、身体の大半を包み隠している。裾を割るボトムスは対照的に抜けるような白だ。足もとだけは普段と変わらないサンダルで、一点の日常が非日常を際立たせているようだった。玉砂利を踏みしめて彼の人は立っている。
花を提げている。白い大ぶりのチューリップ。肉厚の花弁は水から揚げてもう大分長くなるというのに、一向にくたびれる様子を見せなかった。その強靭さはいかにも持ち主にふさわしいようで、どこか、何か、物悲しさを招く。己が臣下の眠る目前、彼の人は、線を引いていた。





線を引いている。間違えないように、見つけられるように。
これは、領域だ。結界であり、境界だ。
道標なのだった。彼の決意へと至るみちしるべ。たどりつくことが不可能だとしても、よしんば届かないとしても、それでも標は黙って理想に至る道を指し続ける。彼はそれを、自身の深く深く脈打つ場所に刻みこむため、この冷たい墓石の前へ幾度も足を運ぶのだった。
これは、儀式だ。戒めであり、懺悔だ。
確認なのだった。違えないための。誤らないための… そして…
そして、彼が迷うことは、きっともう、ない。





不意に、彼はこうべを跳ね上げる。息を吐くと、つと花束の包みに手をかけ、引き裂き、墓の上からばらばら降らせた。彼の手向けは天災のようだとふと思う。手荒で美しい力、抗えないそれ。
「行くか」
返事を待たずにしゃらりときびすを返す後ろ姿はいかにも凛とうつくしかった。諦めを知ってる美しさだ。傷を得た林檎はより甘くなる。
(そして…腐り落ちる寸前まで…いっそう甘さを増し続ける。)
彼が俺を見ることは二度とないだろう。そうと定めた意志を知ってる。前だけ見据える覚悟を、強さを。俺の彼への想いも一緒だ。彼へ差し出す手は支えるためのもの。それ以外の何か、私的なもの、熱病みたいな衝動、そんなのはもうありえない。夜のような深みに、触りたくて、触れなくて、焦れったさに歯噛みすることも、もう、ない。
彼は足を緩めもしない。振り返ると無機質に連なる墓標の向こう、白い花の輪郭だけが浮き上がって見えていた。
供えたのは花。捧げたのは心。彼のこれまでとこれからの全て。
悲しみで透き通った空はいつもよりずっと青色だった。






さようなら、ひとつの運命。
断絶された想いの断面は腐りもせずに、綺麗なままで横たわっている。















20080905  許すなかれ