もう一年ほど前のことになるが、公用の旅で J のほとりに泊まった夜、夜半に目を覚ますと戸外で誰かが自分の名を呼んでいた。声に応じて外へ出てみれば、それは闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、声を追って走り出したが、水辺のあたりで見失う。悄然としつつ部屋へ戻り、一睡ののち、服を改め、朝のまだ暗いうちに降りていったところ、宿の主人が出てきてよくお眠りになられましたでしょうかと問うた。ええ、まあ、と曖昧に言葉を濁すと、主人は、さあそれは良うございましたと言い引っ込んだ。






日が高くなってから呼ぶ声を失ったあたりまで歩いてみたが、ただ水がとうとうと流れているだけで格別のことはなかった。未練がましく黄昏の濃くなるまでうろついたあと、近在の者の溜まる盛り場に寄って帰ったのだが、そこで耳にした話には、夜にふと姿が見えなくなった人間はけものになるという。それがこのあたりでは少なくないことなのだと。どうも最近にも実際あったことらしく、馬鹿げた話があるものか、いなくなった奴らは皆 J に飛び込んで沈んだのだと声高に主張を掲げる人もあったがしかし、それを言わしめているのは得体の知れないものへの虚勢だということは余所者の自分にも十分理解できた。してみれば主人はこのことを心配してよく眠れたかなど訊いてきたのかと思い当たったのは、その夜もまた名を呼ぶ声に走って、結局見失い、立ち尽くしていたときである。 J を流れる水音に、身体を軽く震わせる。けものになるなど、おぞましい。考えただけで震えが、さいぜんの通り抜けるような軽いそれではない、重く嫌なものが身体の芯に居座って歯の根を揺する。死にたくだって、無論なかった。それだのに、どうして得体の知れない声に従ってしまうのだろうか。 J の水音がやたらに耳に響いていた。考えは、まとまらなかった。






声は夜毎名前を呼ぶ。そのたびに抜け出し、夜を走り、そのたびごとに見失った。それを4、5日も続けると、さすがに消耗を隠せなくなる。宿の主人の気遣わしげな視線さえ気に障っていた。だからある夜、名を呼ぶ声に、寝台からは立ち上がらぬままつぶやいた。お前は何か。なぜ呼ぶのか。声はぐつぐつと奇妙に笑った。自分の名前と「こっちだ」という以外の声を聞いたのは、それが初めてで、最後だった。

「おれはおまえだ。おまえはおれだ。おまえはけものになりたいのだろう」
「言っている意味が、わからない」
「ああわかるまい、わかるまいよ、それがわかればけものになれる。だのにおまえはちっともわかろうとしてない」
「わかりたくない。けものになど、なりたくない」
「おまえはけものにすらなれないのだ」

重く柔らかい、あわくあたたかい影のかたまりが腹の上で色濃くわだかまっていた。荒々しい息づかいを敷布ごしに感じる。闇の中にもほの白い牙をむき出しに、影はげたげたと笑っていた。なまぐさい熱い風が吹き付ける。哀れよ、哀れよとかすれた声で言ってから、転がるように月の光の下へ飛び出し、そうして二度と戻らなかった。






朝になり、まだ暗いうちに降りていくと、宿の主人が出てきて言った。

「ご気分が、すぐれませんか? どうもこの所、お顔の色がお悪いようで…」

そんなことはないと首を振ったが、主人はなおも言葉を続ける。体の前で手をこすりながら、失礼ですがと遠慮がちに言う。

「お客様。このあたりにはどのようなご用でおいででしょう」
「公用で…」
「失礼ですが、どのような」
「人を…人を捜して…」

捜し人の顔も名前も思い出せずにいることに、そのときようよう気づいたのだった。どころかそれを命じてきた相手さえあやふやだ。目を閉じて、記憶の霧の向こうから、あえかな声をさぐり出す。脳裏にちらつく赤色の、輝き? あなたまでのまれないように…何にだ…

「お人捜しでいらっしゃいましたか。どうもここいらでは、気がふれて、行方知れずになられてしまう方が多うございます。大きな声では申せませんが、都からおいでの身分ある方々も幾人か…もしやお捜しはその中に…?」
「…わからない。あの人はそんな、気がふれるなど、そんなに弱い人ではないはず」
「ご存知よりの、お方ですか」
「大切な人だったと思う。それなのに…なぜ思い出せないんだろう…」

主人はこちらを見つめていたが、ややあって、手を打った。

「お客様、お名前をお教え願います」
「何だって?」
「まだうかがっておりませんで。ガイ・セシル様、ほんとうの、お名前を」
「それも、思い出せないんだ」
「そうですか」

宿の主人は力づけるように、静かに笑い、やさしく言う。「そんなら思い出されるまで、どうぞお泊まりくださいませ。お客様」
「どれほど時間がかかったとして、当方ちっとも構いません。この宿は、長逗留の方には慣れておりますし、ただ今ご利用いただいているのは、お客様だけでございますから」

慕わしいような笑顔のそばで、少し長めの彼の金髪にきれいに映える石の飾りが澄んだ青色をたたえている。






そうして季節がひとつ巡った。最近では、宿の仕事を少し手伝うようになった。主人は恐縮して頭を下げるが、拒む様子ではないので、気まぐれに手を出し続けている。
声はあれ以来二度と聞かない。

















20100205
李徴が己の詩業に絶望したのちエンサンの手厚いカウンセリングにより再び奮起し、政界を裏から操る実力者へとのぼりつめていく感動のアナザーストーリーがあったら読んでみたい